NRIに来て、もう21年目になります。それ以前は、NY連銀で実務を3年やり、その前はドクターフェローでワシントン連邦準備銀行にいました。
NY連銀時代からお話しますと、私は当初ユーロ・シンジケート・ローン市場の担当部署に、エコノミストとして配属になりました。ユーロドル、ユーロと言っても今のユーロではなくアメリカ以外に存在するドルという意味ですが、そういう資金で当時世界中の銀行が中南米に大量に貸し込んでいて、それをフォローするのが私の仕事でした。
82年の8月にこのマーケットは完全に破綻しました。
中南米債務危機ですね。メキシコが金を払えなくなって、そこから最南端のアルゼンチンまで全部がデフォルトするという大変な事態に陥りました。
当時私が担当者だったので、随分いろんなことをやらされました。当時は明らかにはなっていませんでしたが、アメリカの大手銀行8行のうち7行が債務超過に陥るという事態になりましたので、その時の経験が、いま私が銀行問題について発言しているスターティングポイントになっているんです。
私がNY連銀の中でこの問題に取り組んだのは半年から1年で、マーケット自体がなくなったため、その後は為替デスクに移り、日々の為替の動きや介入があった時の状況をワシントンに報告していました。
為替市場というものはこういうものなんだと初めて学んだのがこの為替デスクでした。
入行後3年ほど経った時に、野村から2年契約・更新はなしという条件で誘いがありました。
NY連銀には3回まで戻れる制度があって、上司にも「少し日本のことを勉強して我々に報告してくれ。連銀にまた戻ってくればいい」と言われたものですから、軽い気持ちで日本に来たわけです。
NRIに来た当初は内国経済調査室で日本経済を勉強しながら、アメリカの景況を踏まえて、今後日本はどっちに行くのだろうかとやっていたんです。
NY連銀とはよく連絡をとっていて、日本の経済状況などを報告し、また連銀から得た情報を国内の皆さんに報告していたんです。
2年くらいでNY連銀に戻るつもりでいたのですが、野村證券からは「帰るんじゃない」と言われ、またNY連銀からも「そこにいる方が都合が良い」ということで、私も残ろうと決め、今に至っています。
ちょっと『ダブルスパイ』(笑)は大変だなと思いながらも、ただそういう作業が日本の機関投資家・政府を含め、評価されたんで、ずっとそういう仕事をやってきたんです。
80年代は主に資本移動の問題が専門分野でした。
90年代に入ってからは貿易摩擦と為替レートの問題や銀行問題などの調査研究をしました。
銀行問題はNY連銀時代に経験があったので、かなり積極的に発言させていただきました。
橋本政権当時は、財政再建ということが言われていましたが、私はそれをやったら日本経済がめちゃくちゃになるという論文を出しました。
そして、私が言っていた通りになったもんですから、各方面から話を聞きたいということになり、それ以降多くの政府委員会等に出席するようになりました。
現在は、野村證券のお客様、特に機関投資家の皆さん相手に今世界がどうなっているか、日本がどうなっているか、アメリカがどうなっているか、という話をしています。
また、いわゆるマーケットエコノミストの仕事の他に、全体でみれば2割〜3割の時間ですが、政策提言の仕事をしています。
マーケットで学んだことをベースに、天下国家という視点で政策提言をする時間があるというのが、私には合っているし、20年間こういう仕事を続けていられる基本だと思いますね。
このような経験が機関投資家とのミーティングでも生きるわけです。
例えばミーティングの時には、株式、債券、アセットアロケーションというように様々な専門分野の人がいて、質問はあらゆるところから飛んでくるわけです。
ですからある程度の経験や世界観をもってないと、これら全部に答えられないんですね。NRIに来てまず、世界観を持つことを目標に随分勉強しました。
それが分かってくると、いろいろなものが見えてくるのです。だから、この世界はある程度経験を積まないとできないと思いますね。 |